注目キーワード
  1. Bowmore
  2. 1966
  3. Samaroli
  4. Sestante
  5. Intertrade

【ウイスキーテイスティング-2】050204


2023年2月4日

ここしばらく順次公開させていただいている原稿は、東洋経済新聞社から原稿依頼を受け、書籍発刊に向けて約10年前に書き溜めていたものです。

原稿番号の最初の2桁は25であれば平成25年に書いたという意味です。


ウイスキーテイスティングの技術論など概念的なことは書き上げることができたのですが、各蒸留所の具体的なハウススタイル、具体的なボトルとテイスティング内容を網羅する段階途中で私が繁忙になったという言い訳ですが、網羅しきる前に執筆にとん挫したというのが実情です。


相当に時間のかかる作業ではありますが、一度取り掛かったものをそのままにしておくこともまたもったいないことと思い、データのバックアップを兼ねて原稿を再度見直して最初から公開していこうとしているところです。

さて前回「【ウイスキーテイスティング-1】【もし今から飲み始めるなら-6】250525」において書いた、

・自らテイスティングする場合でも、他者からテイスティングを伺う時も、常に【食べ物由来の要素】の感想か?【食べる人間由来の要素】の感想か?区分して認識することが極めて大切です。

・なぜならその「おいしさ」という感覚、各区分に対して、個々人がその認識によって快楽を得るにあたって、人間として理性で抗うことが出来る要素なのか、そうでない本能的な要素なのか。を理解することと同意だからです。

へ至る論理展開(どうしてそう言えるのか)について、この後も各論でお話しすることとなるのですが、非常に重要な部分でもありますので、全体像と言いますか、概論について最初に触れておいた方が理解しやすい方もいらっしゃるかなと思い、今回書いてみたいと思います。


いわゆる認識論についてです。

【認識論の歴史的展開-1】

【それあなたの感想ですよね?とは】

医療現場で日常行っている、病気を持った方への医療行為。医療を行う側の自分はその病気でもないのに、患者に対してどうしてその医療行為をおこなえるのか?その根拠は?という話を題材にさせてください。

・「我思う、故に我在り」 (1637年 デカルト)

→自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題。

・カントの批判(1724年 – 1804年)

→心と外的対象とを切り離して、心の実在は信じるが外的対象の実在を疑う観念論は間違いである。我思うという疑いのないとされる経験さえも外的経験を前提している。外的な物が一切ない空虚な空間を想定した場合に我思う経験をすることは不可能だということをデカルトは考えていない。

→内的世界と外的世界を切り離すことを不合理と批判したものであり、「我思う故に我あり」自体を間違いと述べているわけではないとされる。「我思う故に我あり」は時間的に規定されている「現象」としての「自己意識」について言及しているに過ぎない。


ここで「現象とはなにか?現象をどのように認識すればいいのか?」という話になります。

現象学が創始されます。

現象学は1900年代初めにドイツ系の哲学者フッサールによって創始され、ドイツの哲学者ハイデガーやフランスの哲学者メルロ=ポンティたちに受け継がれた現代哲学の一大潮流。

医学においても1970年代アメリカで、1990年代からわが国において導入されました。現在でも科学研究費補助金による研究プロジェクトが進行中で、2016年から「医療現象学の新たな構築」プロジェクトが開始され、医療現象学という言葉が一般化されました。


医療現象学では、

疾患=細胞・組織・器官レヴェルでの失調の現われ

→医学的検査によって数量的データを通じて認識され、医学的に特定されるもの

病い=能力の喪失や機能不全をめぐる人間的経験(human experience)

→その疾患を持つ個々人の生活における悩みや不都合を含めた状態

と現象の再定義がおこなわれました。


従来の西洋医学は、自然科学に論拠し「諸事物に共通する計量可能な因子を用いて記述する」という方法に基づいていました。いわゆる疾患の発見に「客観性」を担保するため「量的研究」の立場をとったわけです。<観察・計測・統計によって実際に得られ、検証が可能な数量的知識こそ真に科学的で客観的な認識だ。(実証主義≒エビデンス重視)>

このこと(実証主義の立場)は重要なことで、数量的にとらえられるデータによるエビデンスに基づいた医療行為を行うのでなければ、医療は主観的な思い込みが人間の生命健康を左右することになってしまいますから、否定することはできません。

ところがそうすると、「病い」について、個々人の困りごとについて同じように数量化できるのかという問題に直面します。

従来申し上げた、「個々人の価値観フィルターを他者がどのように認識し評価すべきか?」という問題です。


現象学では「個々人の価値観」を「方向性」として認識することを提唱しました。

「疾患によって楽しみにしていた海外旅行に行けなくなった。このようなことがたびたび重なり、気持ちが塞ぎがちとなった。」

→疾患がなければ楽しみを得るために行動する「方向性」を持っていた方が、疾患によって「逆に」楽しみを奪われ、気持ちが塞ぎがちな「方向性」となった。

単に心理的な事象ではなく、心理面と身体面とにまたがって経験される「方向性」の意味で、「ご本人が注目する方向性」(心身一元論)の変化に注目すべきという論調です。


医療現象学では、

「疾患」は人によってその人が何を大事にし、それまでどのように生きてきたか等によって、異なる「意味」を帯びた「病い」として経験される。

と定義しました。

そのため仮に「腎不全」の患者さんであっても、「一般に」腎不全患者とは、透析についてこのような意味合いで受け止めるものだとは言えないと考えます。また、このような経験(現象)に対する個々人の意味付け(意識作用とその強度)は定量化(数量化)できません


・自然科学的・数学的には原理的に捉えきれない私たちの経験の「意味」に着目し、そうした意味経験の成り立ち(意味経験の構造と発生を意味する)を、

意識の志向性(フッサール)

現存在の気遣い(ハイデガー)

身体の志向性(メルロ=ポンティ)

といった、哲学的に捉えられる人間存在の根本構造の方から明らかにしようとする哲学が、現象学です。


このあたりの定義は微妙なニュアンスなので、そろそろウイスキーテイスティングにおける現象学の利用方法について書きたいと思います。

この絵はマッハの「感覚の分析」という書物にある挿絵です。フッサールが参考にしたとされ、現象と志向性の働きを説明するのに好都合なため定番で出てくる挿絵です。

フッサールの論じる「意識の志向性」とは、意識に現れる何か(1)を何か(2)として捉える働きです。

何か(1)のことを意識に与えられる「与件」といい

何か(2)が意識の志向性によって捉えられる「意味」のことです。

どういうことか上図に沿って示すと、

左側に分かりにくいのですが、「本」らしきものが並んでいます。


この絵を見ている私の意識に、本棚に並んだ「本」が現象している。=私の意識に現れている対象が、「本」という意味を帯びて現象している。


この場合、実際には本の背表紙しか見えていません。そのため私の意識に実際に現れている「与件」は、本の全体ではなく一部分であるところの背表紙だけです。

これがフッサールのいうところの「意識に現れる与件を、本という意味として捉える、意識の志向性の働き」です。部分的与件であるところの背表紙だけで、全体的な「本」であると意識を働かせたということです。

ウイスキーに例えると、目の前にブラインドテイスティングで出されたグラスがあるとして、黄色い果実の香りと味、パパイアやマンゴー、パイナップルの香りと味を持っている、この全体から発散される南国感、これはボウモアの1960年代蒸留品ではないか?と捉えることと同意です。

先の例でいうと「本」、後者の例では「ボウモア1960年代蒸留」に関する、あらかじめ持っていた知識から、対象物を特定したという「解釈」をおこなった作業、この意識の作業の方向性を「志向性」とフッサールは呼びました。