「経験則に根拠の下支えを」
この本では、テイスティングの具体的な方法や、各蒸溜所の解説をさせていただくのですが、もう一つというより、一番大事な項目として「ウイスキーが人にどのような作用を与えるのか?」、その根拠についても明らかにしたいと思っています。
正直なところ、ウイスキーだけに独特という内容ではなく、飲食物全般、音楽や映画その他あらゆる文化的嗜好に関わるシステムについてのお話なので、ちょっとややこしいと思われるかもしれませんが、一度理解すると(私はそうでした)大げさな話「人生観」が変わるかもしれません。
従来ウイスキーの言論に関しては、個々人の経験則が先行しすぎていて、その根拠が曖昧でした。これはワインでも、食でも味わうという行為と感想というのはすべからくそうだったと思います。
なぜ美味しいのか? それはこういう香味で、食感だから。もちろんそれが根幹であることに間違いありません。
でも逆に「こういう香味で、こういう食感」だったら、なぜ「美味しいと思うのか?」についてはどうでしょうか?
食物の化学的構造骨格、それらを検出・分析して紹介することはあったでしょうが、実際それらがどういう作用を人体に及ぼすのかについての解説は見たことがありません。
先に「モノ(物質)」があり、それが人体にどのような作用を及ぼすのか?
これを解明し、人間の生命に役立てること。
ある意味、これが薬学の出発点です。
私も薬剤師の端くれとして、ウイスキーを愛するものとして、なるべくわかりやすく、理解するコツのようなことも含めて書かせていただこうと思います。
【グルーピング】
最初に申し上げておくと、聞きなれない専門用語がどうしても出てくるわけですが、惑わされずに済むためにも、それら人体関係の部位やシステムの単語というのは、数々の重なりあうグルーピングをされているものだということを覚えておいてください。(数学で言う集合論に近い)
例えるなら、Aという野球選手がいると、その人はある野球チームに所属していて、それはセ・リーグの中の1チームであり、他にパ・リーグがあり、合わせてプロ野球のリーグというみたいなものです。
でもあれこれ上位に所属があったとしても、根幹は「A」という野球選手です。
このAさんが非常にバッティングが上手だと、これがAさんの機能・性質です。まずその根幹について知るということ、これを大事にして、続いてBさんについては守備がうまい、だからこの二人が所属している野球チームは攻守のバランスがいいという認識を重ねていくことがコツです。
どんな分野でもそうだと思います。アイラ島を知るというときに、含まれる蒸溜所をブナハーブンしか知らなかったという場合と、アードベッグしか知らなかったという場合でも大きく印象が違います。
まず含まれる個々の蒸溜所に対する印象をひとつひとつ形作ってから、上位の概念に対する総合的な評価をしないといけません。
「報酬系の根幹」
最初に申し上げると、人間の「快楽の中枢」は「側坐核」という部位に存在します。
グルーピングを言うと、大脳の基底部にある大脳基底核、そこに線条体、尾状核、被殻、淡蒼球、視床下核、黒質があり、そのうち線条体は背側線条体と腹側線条体に分かれますが、この腹側線条体の別名が側坐核であって、大脳基底核とは、大脳皮質下から脳幹に散在する構造システムの総称であります。
。。。などと言っても、それぞれの用語がどのような性質を持つのかを知らなければ意味もない話です。
ここでは便宜的に「快楽の中枢」それは「側坐核」であるとだけ把握してください。
この側坐核の中には、快楽を促進するニューロン(ニューロン=神経細胞)と、抑制するニューロンとがあります。快楽のプラスとマイナスを調節するための機構です。
・快楽促進の役割を担うのが、MSニューロンと呼ばれる中型有棘ニューロン。
・MSニューロンに対して快楽抑制の役割を担うのが、コリン作動性ニューロンです。このMSニューロンに対して、抑制というところがポイントです。
基本的に、神経の伝達というのは電話回線みたいなもので、個々の部位に、実際に現物、物理的に存在する回線が張り巡らされているイメージを持っていただくといいと思います。
側坐核にも、中にあるMSニューロン、コリン作動性ニューロンに対して、他の部位から回線が来ています。
ちょっとここでややこしいのですが、これは覚えておいていただきたいのが、人体の部位、システムに来ている「回線」に伝わる信号には、ことごとくプラスとマイナスの信号があるということです。
・プラスの信号のことを、単に刺激とか、亢進、促進といった表現がなされます。
・マイナスの信号については、抑制、ストップといった表現がなされます。
側坐核(快楽の中枢)内部の、
・MSニューロンにプラス信号(刺激、亢進、促進)が伝わると、快楽は↑アップします。
・MSニューロンにマイナス信号(抑制、ストップ)が伝わると、快楽は↓ダウンします。
ただこの場合は、元々MSニューロンは快楽の促進の役割を担っているので、快楽の促進が抑制されたというのが正しいところです。
・コリン作動性ニューロンにプラス信号(刺激、亢進、促進)が伝わると、MSニューロンに抑制をかけることで結果として、快楽は↓ダウンします。
・コリン作動性ニューロンにマイナス信号(抑制、ストップ)が伝わると、MSニューロンに抑制をかけるパワーに抑制がかかることで結果として、快楽は↑アップします。
ただこの場合は、元々コリン作動性ニューロンは、MSニューロンに対して抑制をかける役割を担っているので、「快楽の抑制が、抑制された、結果快楽がアップされた」というのが正しいところです。
いかがでしょうか、大変申し訳無いのですが、とっつきにくい話だとは思います。
ただ、快楽の中枢は側坐核にあり、ウイスキーなり、食事なり、映画でも音楽でも、それを感知した他の部位が、側坐核において快楽を上昇する信号を送れば、我々は快楽を享受すると、そういう仕組みになっていることがわかります。
次なる問題は、回線(神経網)です。
側坐核に対して入力を行うための回線がどうなっているのか、どういう経路をたどるのかによって、快楽の質、強弱も変わってきます。
「報酬系の代表的システム:ドーパミン系」
快楽の中枢が、側坐核に存在することが分かりました。
美味しい、嬉しいといった快楽的感覚を得るということは、この側坐核に繋がる回線を通して信号が伝達されることで実現されるわけです。
では具体的に、この側坐核にインプットを行う回線にはどんなものがあるのかをご紹介します。
なんといても側坐核にインプットを行うことが出来る、快楽をうながす代表的なニューロン(=神経細胞)といえば「ドーパミン作動性ニューロン」です。
有名な名称なので、ドーパミンという単語は聞いたことが有る方も多いと思います。
このドーパミン作動性ニューロンは、腹側被蓋野に存在します。そして先ほど解説した、側坐核のMSニューロンに入力しています。
ドーパミン作動性ニューロンを通じて、MSニューロンを刺激することで快楽を得ることが出来る構造なのです。
実は側坐核には、ドーパミン作動性ニューロンだけではなく、他にも沢山の回線入力があります。ですがそれらは、どちらかというと本能的な価値判断、例えば不足していた栄養素を満たす食事をとったなどを元に信号が発せられるものたちです。
一方ドーパミン作動性ニューロンは、より人間の嗜好を反映する役割を担っています。
「嗜好の根幹」
人間の五感、各感覚器で捉えられた「感覚」は、神経回線を伝って、脳内の視床に一度集められ、そこから大脳皮質にある各感覚を処理する器官に、そして海馬、扁桃体、前頭前野にも伝えられます。
簡単にまとめると、
・前頭前野は知性、理性、創造力を担う器官で、物事を認知、判断、決定をしている場所です。感情が正しいかどうかも、認知、判断しています。
・海馬は脳の記憶や空間学習能力に関わる器官で、記憶をもとに、扁桃体に対して、どんな時にどんな感情を生みだすのかという情報を提供する役割も担っています。
・扁桃体は情動的な出来事に関連付けられる記憶の形成と貯蔵を行う器官で、「好き」「嫌い」「うれしい」「悲しい」「不安」などの感情が生まれる場所です。
こうした五感から得られる感覚が、主に海馬、扁桃体、前頭前野において価値判断され、その結果「快(こころよい)」となると、ドーパミン作動性ニューロンへ信号を出し、その終端からドーパミンが放出され、それが側坐核のMSニューロンで受け止められて、快楽となるというわけです。
これが人間の嗜好の根幹です。
人間の行動原理そのものが、「欲求→行動→満足」というサイクルで回っているのです。
脳の中で、ある行動についてうれしいと判断されて、実際その行動をしたら満足感を得た(ドーパミン作動性ニューロン→側坐核)という記憶があるとすると、またその満足感を得るべく期待してその行動をしたくなる。
このサイクルです。
記憶の出し手が海馬。うれしいという感情を形成するのが扁桃体。最終的に判断して(司令塔として)行動させるのが前頭前野のはたらきです。
このサイクルを担うシステムのどこかが欠けても、人間は行動できなくなってしまうと言われています。事実、ドーパミンが不足するパーキンソン病では、手足が動かなくなってしまいます。
もし嫌だなと思う行動であっても、前頭前野で理性的に、それはするべきだと判断されればその行動をすることが促されます。でも苦痛が蓄積され、もうその行動を行ったとしても十分なドーパミンが放出されないとなると、その行動はできなくなります。
ここで重要なことがあります。
ウイスキーというお酒、物質をあつかう以上覚えておかなければならないことなのですが、いわゆるドラッグと呼ばれているものは、このドーパミンの「量」をコントロールする物質なのです。
代表的な物質としては、
・アルコール・モルヒネ・ヘロインはドーパミン放出を妨げる機能を麻痺させます。放出の邪魔をするものを麻痺させますから、結果ドーパミンの量は増えます。
・ニコチンはドーパミンの放出を促進させます。
・覚せい剤・コカインはドーパミンの再吸収(代謝・排泄)を選択的に(ピンポイントで)阻害します。一度出たドーパミンがなかなか再吸収(代謝・排泄)に回らず残りますから、結果ドーパミンの量は増えます。
余談ですが、女性の場合、女性ホルモン(エストロゲン)の働きで、もともと側坐核へのドーパミン放出が男性より多いとされています。行動薬学では、女性がコカインやアンフェタミン系の覚せい剤を使用すると最初の一回で精神依存が定着するとも論じられています。
こうして見てきたように、ウイスキーがアルコールを含み、また豊かな香味やテクスチャを持っている物質であるために、その嗜好という観点では、海馬、扁桃体、前頭前野による価値判断に加えて、アルコール自体が直接ドーパミンの量を増やす(快楽を増す)ドラッグとしての側面があるという、両面があることを理解していなくてはならないでしょう。
前者による価値判断に基いて快楽を得たのか、後者のドラッグとしてのドーパミン量増大によって快楽を得たのか、これらを分けて考えられるために、嗜好品だからこその取り組み、ある種の努力、工夫をしなくてはならないと思います。